解説:望月真澄
 日脱上人は、寛永四年(一六二六)石川県に生まれ、幼名を久太郎といった。金沢本是寺日理上人に就いて出家し、飯高檀林中台谷に学び、学徳の譽れ高く、京都山科檀林の化主に請待された。その縁あってか、寛文十年(一六七〇)京都本山立本寺二十二世に入山した。さらに、六年後の延宝四年(一六七六)に総本山に晋董し、三十一世の法統を継承したが、 猊狙座にあった二十年間身延山の再興のために尽力した。主な功績は、祈祷堂の建立、紫衣の勅許、芙蓉牡丹紋(近衛家の定紋)の使用許可と、現在の身延山の基礎を築いた。よって、後の三十二世日省上人、三十三世日亨了上人とともに身延山中興の三師と讃えられている。元禄十一年(一六九八)九月二十二日に谷中瑞輪寺にて遷化し、七十三歳の生涯を閉じた。字は空雅、一圓院と号した。
写真左:木版多色刷 日脱上人御影 厚木市本山妙純寺所蔵
写真右:木造 日脱上人倚像 身延山大乗坊奉安
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 本資料集の目的は、日脱上人の遺墨、並びに日脱上人関係史料を全国的に調査し、収録することにある。資料の所在に関しては、日蓮宗新聞等を通じて、その所在を確認し、関係資料を所蔵されている場合は報告していただいた。また、『日蓮宗寺院大鑑』(池上本門寺編)の寺宝の記載の中や日蓮宗宗宝調査録及び立正大学日蓮教学研究所写真帳の中から日脱上人関係のものを抽出し、資料の確認調査をおこなった。その所在に関しても、所蔵者からの報告によるところが大きかった。こうして菟集した資料を、曼茶羅本尊、書状、文書・許状、詩書、絵画、写経・定書・極書、所持品、肖像、墓塔、その他に分類して掲載した。加えて日脱上人伝関係資料も収録したので、それぞれ解説し、その中で特徴あるものをピックアップして資料の傾向をみてみることにしたい。

一、曼茶羅本尊・日蓮聖人形木本尊(日脱上人開眼)・板曼茶羅本尊・棟札
 (曼茶羅本尊)日脱上人自筆の十界勧請曼茶羅本尊、略本尊、一遍首題を年代順に排列した。一遍首題・略本尊を含めた曼茶羅本尊の資料的初見は、延宝五年(一六七七)卯月八日、最後は、元禄十年(一六九七)八月二十八日であり、その間二十年、確認できるものだけで百三十一点を数える。この後も身延山内をはじめ、各地で曼茶羅の所在が聞かれるところであるが、編集の都合もあり、平成十年六月末日までにその所在が判明したものを編集した。
 百三十一幅中(曼茶羅1)、(曼茶羅2)は、本山立本寺在世時代のものであり、この二幅と年月日未詳のものを除き、その他は全て身延山在世時のものである。日脱上人は延宝七年二月二十六日身延山久遠寺の猊座に晋むが、これ以降の一遍首題(曼茶羅3)には「身延三十一世」の肩書きが記されるようになっている。そして、元禄三年十一月五日以降の曼茶羅には「賜紫沙門」の肩書きが付されているものが多くなる。日付に着目すると十月十三日の宗祖の御聖日付けのものが最も多く、毎月の御聖日の十三日付けのものも多い。花押は生涯大きな変化なく、曼茶羅の大きさは、本尊として機能すべく、寺院や僧侶授与のものは三紙かそれ以上で比較的大きいものが多く、檀信徒宛のものはほとんどが一紙で小さめである。この特徴は、他の宗門先師と同じであるが、一遍首題が多いのが日脱上人の本尊の特色といえよう。また、信徒授与のものには逆修法号を授与しているものが多くみられる。上部の讃文には「後五百歳中廣宣流布」・「智恵光明 如日之照」・「於如来滅後 廣令流布 閻浮提内 使不断絶」といったものが付されているものがあり、形木本尊にも祈願文を付しているものもある(形木本尊2)。
 (日蓮聖人形木本尊・日脱上人開眼)日蓮聖人の木版刷の曼茶羅本尊は江戸時代に大量に作成された.これに日脱上人が、自署・花押、被授与者・授与年月日、讃文等を付した本尊が五点確認されている。特に、これを寺院・僧侶へ授与しているものが多くみられるが、これが日脱上人の本尊としての特色であり、注目すべき点である。
 (板曼茶羅本尊・棟札)棟札は、堂塔の守護として勧請するものが普通であるが、それとは別に板曼茶羅本尊として、寺院の僧侶に授与した形態のものもある。日脱上人の場合は両者の形態を有しているものもあるが、総点数が少ないため、これらを敢えて区別せず、年代順に排列した。したがって、上部の讃文も「火不能焼 水不能漂」(棟札)・「諸佛救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力」とあるように、棟札として必要な祈願文もあれば、裏書がなく、弟子へ授与した弟子曼茶羅としての機能をもつものもある。

二、書状
 日脱上人筆の書状は、確認できるだけで十通である。資料的に少ないが、残存するもので解釈してみると、身延山の祈祷堂の建立やその勧募に関する書状が多いことがわかる。

三、文書・許状
 日脱上人が身延山の猊座に晋んだ頃、不受不施悲田派が存在しており、これらに関する古文書・記録が身延文庫にまとまって所蔵されている。また、末寺の住職補任状や寺院の由緒を顕彰する資料がみられるが、これらは身延山と各地の末寺の関係を知る手がかりとなるものである。

四、詩書
 詩書三点は最近の調査で発見された貴重なものであり、今後再調査する必要があろう。

五、絵画
 氷見の蓮乗寺の日蓮聖人御影と身延山久遠寺の同御影、富士妙法寺の同御影は同じ説法図であり、聖画として日脱上人が描いた日蓮聖人画像である。特に蓮乗寺の御影は、故郷の実家を継いだ姉なつに贈ったものと伝えられ、祖師信仰が絵によって如実に表現されている。そして大黒天画像といった仏画も描かれ、これらの信仰的な画像は日脱上人の信仰の証しであり、仏画として礼拝の対象となるものである。一方、馬図や竹図にみられるように自然な絵も手がけている。当時の禅僧の多くは水墨画を描いているが、日蓮宗の僧侶の中にも、実際に絵筆を取って仏画や水墨画を描いた人物が多くいたのであろうことが推察される。

六、写経・定書・極書
 日脱上人は、日蓮聖人の真筆の極め書きもおこなっており、身延在山中、久遠寺の住持として多くの御真跡を拝していたと推察できる。細字『妙法蓮華経』写経は日脱上人の出家以前の筆であり、これを後に身延山三十一世となってから加筆(自署花押)していることが史料的に着目される点である。

七、銘文
 身延山妙石坊の祖師像は身延山久遠寺奥の院に勧請されていたものを遷座したもので、銘文3の題目宝塔はその背面に奉安されていたものである。梵鐘も現在、身延山法喜堂前に「時の鐘」として奉安され、定期的に打ち鳴らされている。真正寺奉安の七面大明神像は、江戸幕府の高家であった吉良上野介義央の家に勧請されたものである。吉良家は、身延山久遠寺住持の紫衣参内勅許の折に尽力しており、この尊像は、吉良家と日脱上人の信仰的なつながりを知る貴重な守護神像といえよう。

八、所持品
 日脱上人が所持していたと伝えられる宝物を収録した。中でも富山県蓮乗寺に奉安されている日蓮聖人坐像は、日脱上人が持仏として所持していたと伝えられるもの。同寺のお会式の折りに宇波地区の宇波講中(別名一円講中)と冠した講中が参篭し、礼拝していったもので、現在氷見市の指定文化財となっている。日脱上人は、身延流(積善坊流)祈祷の始祖満行院日順上人と交流があり、日脱上人が所持していた木剣が身延文庫に格護されている。この頃、上人は身延山御真骨堂横に祈祷堂を建立し、山内にも祈祷堂三十六坊を建立していることから、加持祈祷を重んじていたことを窺い知ることができる。染付徳利は、葵の紋が入っており徳川家と日脱上人の関係を知る貴重な遺品として、今後検証する必要があろう。

九、肖像

 日脱上人紫衣勅許の折参内した折の肖像と伝えられ、吉良家に伝来した肖像の模写として脱師法縁寺院にも多く伝えられている。この多色本版刷の肖像画は、安政六年(一八五九)五月二日、四谷日
宗寺和絞院日斎上人が、関係寺院に納めたという記録があり、これによって、遅くとも幕末期に作成されたものと推定できる。日脱上人像として代表的な木像は、身延山大乗坊の倚像であり、これは一円庵に祀られていたものを後世に大乗坊に遷座したものと伝えられている。

十、墓塔

 身延山久遠寺御廟所境内に歴代墓所があるが、この一角に日脱上人の墓塔がある。その前には弟子の日ェ上人が師匠の三回忌供養のため、元禄十三年会七〇〇)に建てた石灯篭がある。また、この墓域整備の折り、土の中から出土した日脱上人遺愛の徳利が伝来している。御酒をこよなく愛した上人が偲ばれる。以上、一〜十に入らない資料は、十一その他、として収録し、日脱上人に関係する資料は十二関係資料、として収録した。

十三、日脱上人伝関係資料

 日脱上人の伝記を構築するとき、日脱上人が発信した書簡や直筆の資料によるものだけではなく、その時代の日脱上人の置かれた立場から、交流のあった人々に関する資料や身延山において受信した資料をみてみる必要がある。因みに日脱上人が身延山の住持としての在位期間に発給・筆録した資料は全て日脱上人の関係資料といえようが、受信した資料からは、日脱上人と交流があった人物を浮かび上がらせることができるのである。具体的に不受不施関係資料をみると、当時の禁制不受不施派であった悲田派の寺院やその時代の代表的な僧侶の名前が登場してくるのである。よって、日脱上人が受信した書簡の中で、身延文庫に所蔵されるものは、参考のため、表にまとめて一覧してみた。

 以上、現段階では資料紹介に終始してしまったが、今後、日脱上人の遺墨に留まることなく、関係資料等をさらに調査し、これらを分析することによって、史実に基づいた日脱上人伝を構築していくことができる。本資料集はそのための一助となれば幸いである。