常清寺縁起

日蓮宗 宗旨
日蓮宗 宗旨
栄玉山 常清寺縁起 歴代住職
 初代吉田勘兵衛良信翁が、自性院日身上人(東京、運千山、真養寺開山)を招いて建立した寺で、元吉田新田北ニッ目、後の長者町八丁目の地に、延宝四年二月(一六七六年)吉田勘兵衛良信翁が新田守護の為、 身延山第三十一世一円院日脱上人を開山として創建した寺で、日蓮宗総本山、身延山久遠寺の直末の寺であります。故に明治以前、吉田家関係者以外檀信徒入信を許可せず、吉田家菩提寺として供養の拠点で有りました。しかし寺院護持は厳しく、当山第十世、不染院日亮上人(肥後国、本妙寺貫主、加藤清正、菩提寺、一八一三没)が当山へ入山されるとき、本妙寺より加藤清正「浄地院殿永運日浄清正公大神祇(清正公様)」同じく浄行菩薩も当山境内に遷座し、一般檀信徒布教の礎を築き、(長者町の清正公様)と多くの参拝者、布教に勤められました。 清正公様
清正公様
→吉田勘兵衛良信翁について

 清正公様は、武運長久、開運勝利(勝負の神様として)御利益があり、毎月二十四日には特に、参拝者が多く、年に一度の、五月四・五日は、お勝ち守りを戴く方々でにぎわい、六月二十四日(御降誕、ご命日、清正公は、お生まれも、亡くなった日、同日)大祭も参拝者で一日中お線香が絶えなかったそうです。現在でも清正公講中を中心に賑わっております。浄行菩薩は、東京、巣鴨のとげ抜き地蔵様と同じで、体の悪い所を、束子で擦り、浄水で浄めると、完治すると信じられ、水を掛けて浄める所から、お年寄り花柳界、水商売の方々が、特に、縁起が良いと多く信仰されたそうです。この吉田家はもともと摂津国(今の大阪と兵庫の境)能勢郡吉野村の出。徳川家康が江戸に幕府を開くために京都、大阪、三河の住人を移住させた。その中に吉田家があったのです。

 初代吉田勘兵衛良信翁は慶長十六年(一六一一)に生まれ、二十四歳、寛永十一年(一六三四)江戸に下り、材木町に移住しました。ここで木材、石材業を営み、江戸城の修築等に従事して、身代を築いていったのであります。

 吉田新田は大岡川、川ロのつり鐘形入海を開発したもので、明暦二年(一六五六)新田開発の願いを許され、七月十七日にくわ入れを開始、工事の請負人は黒田助兵衛となっています。翌五年五月の雨で潮徐堤が残らずくずれ失敗、その二年後万治二年(一六五九)に追願が許され再び工事を始め、この時は砂村新左衛門が工事に当たり、吉田勘兵衛良信翁が資金を受け持ちました。以来八年かかって寛文七年(一六六七)に開発は完成、総面積は一一六町四反、水田九四町一反、畑二十町三反、社寺宅地二町歩、総額八千三八両を費やしました。

 勘兵衛は、その功績により、寛文九(一六六九)年四代将軍家綱より、苗字帯刀を許可され、己が苗字吉田と言えるを持って、吉田新田と名付けました。
吉田新田開発の中心となって活躍し、江戸に一寺(運千山真養寺)、吉田新田に一寺(栄玉山常清寺)一社(日枝神社お三の宮)を建立し、貞享三年七月二十六日、七十六歳で病没、(運千院殿常清良信日涼大居士)新田開発の功により従五位贈位の恩典に浴しました。

→長者町清正公へ
栄玉山 常清寺
〒232-0007 横浜市南区清水ケ丘231
TEL 045-231-8662 / FAX 045-231-3028

当サイトに掲載の記事・画像等の無断転載はご遠慮ください。
すべての著作権は当サイトに帰属します。
Copyright 2000-2004 "Copyright Jyoseiji". All rights reserved.
Never reproduce or republicate without written permission.