清正公様は、武運長久、開運勝利(勝負の神様として)御利益があり、毎月二十四日には特に、参拝者が多く、年に一度の、五月四・五日は、お勝ち守りを戴く方々でにぎわい、六月二十四日(御降誕、ご命日、清正公は、お生まれも、亡くなった日、同日)大祭も参拝者で一日中お線香が絶えなかったそうです。現在でも清正公講中を中心に賑わっております。浄行菩薩は、東京、巣鴨のとげ抜き地蔵様と同じで、体の悪い所を、束子で擦り、浄水で浄めると、完治すると信じられ、水を掛けて浄める所から、お年寄り花柳界、水商売の方々が、特に、縁起が良いと多く信仰されたそうです。この吉田家はもともと摂津国(今の大阪と兵庫の境)能勢郡吉野村の出。徳川家康が江戸に幕府を開くために京都、大阪、三河の住人を移住させた。その中に吉田家があったのです。
初代吉田勘兵衛良信翁は慶長十六年(一六一一)に生まれ、二十四歳、寛永十一年(一六三四)江戸に下り、材木町に移住しました。ここで木材、石材業を営み、江戸城の修築等に従事して、身代を築いていったのであります。
吉田新田は大岡川、川ロのつり鐘形入海を開発したもので、明暦二年(一六五六)新田開発の願いを許され、七月十七日にくわ入れを開始、工事の請負人は黒田助兵衛となっています。翌五年五月の雨で潮徐堤が残らずくずれ失敗、その二年後万治二年(一六五九)に追願が許され再び工事を始め、この時は砂村新左衛門が工事に当たり、吉田勘兵衛良信翁が資金を受け持ちました。以来八年かかって寛文七年(一六六七)に開発は完成、総面積は一一六町四反、水田九四町一反、畑二十町三反、社寺宅地二町歩、総額八千三八両を費やしました。
勘兵衛は、その功績により、寛文九(一六六九)年四代将軍家綱より、苗字帯刀を許可され、己が苗字吉田と言えるを持って、吉田新田と名付けました。
吉田新田開発の中心となって活躍し、江戸に一寺(運千山真養寺)、吉田新田に一寺(栄玉山常清寺)一社(日枝神社お三の宮)を建立し、貞享三年七月二十六日、七十六歳で病没、(運千院殿常清良信日涼大居士)新田開発の功により従五位贈位の恩典に浴しました。
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